平成の時代に誕生し、平成のうちに消えていった路線

1989年1月8日から2019年4月30日まで続いた平成の時代には多くの鉄道路線が誕生し、一方で多くの路線が公共交通の使命を終え廃止となった。そのなかで平成に開業し、令和に入る前に廃止となってしまった路線が3つある。今回はそれらを紹介していこうと思う。

①栗原電鉄→くりはら田園鉄道 細倉~細倉マインパーク(0.2㎞) 平成2年6月16日開業 平成19年4月1日廃止
栗原電鉄は1921年に石越~沢辺間が開通したのを皮切りに、沿線にある細倉鉱山で産出される亜鉛の輸送などで東北随一の近代私鉄へと成長したが、オイルショックなどの影響で1987年に閉山となり、貨物輸送も廃止。細倉~細倉鉱山の貨物線も廃線となってしまった。しかし、1990年に鉱山の跡を利用した「細倉マインパーク」が開業しその最寄り駅として貨物線の廃線跡を利用する形で200m延長して細倉マインパーク駅を開設、同時に細倉駅は廃止となった。
(手前が細倉駅、奥が細倉マインパーク駅)写真:Wikipedia
しかしその後も乗客は伸び悩み、1995年からは第3セクターのくりはら田園鉄道として再スタートを切ったが残念ながら2007年に廃線となってしまった。東北新幹線との交差地点から西に2.5㎞進んだところには1990年にくりこま高原駅が開業したこともあり、新幹線新駅と接続していれば多少は変わったかもしれない… なお、若柳駅跡には「くりでんミュージアム」があり、定期的に動態保存活動が行われているのでぜひ行ってみてはいかがでしょう?
②桃花台新交通桃花台線 小牧~桃花台東(7.4㎞) 平成3年3月25日開業 平成18年10月1日廃止
こいつが正真正銘の短命路線。「ピーチライナー」という愛称がつけられていたが開業当初から赤字続きだったことから「ピンチライナー」などと揶揄されてしまっていた。
1971年に計画策定された桃花台ニュータウン。1976年にはアクセス路線の基本計画が決定され1日利用者予想は43,000人。1982年の開業が予定されていた。しかしさっそく暗雲が立ち込める。ニュータウンの分譲開始前に54,000人だった計画人口が47,000人に下方修正。さらに工事が開始された1982年には計画人口が約4万人に、桃花台線の1日利用者予想が半分以下の約2万人にそれぞれ下方修正された。そして計画から遅れること9年、ついに桃花台線が開業した。しかし、開業年度の利用者数は1日3281人。最終的な計画の1日9300人を大きく下回ってしまった。その後も乗客が増えることはなく開業から15年半での廃止となった。原因として考えられるのは2003年まで小牧駅から接続する名鉄小牧線が終点の上飯田駅からの乗り換え路線がなく平安通駅までバスまたは徒歩で移動するしかなく不便だったからだと考えられている。さらに、地下鉄上飯田線が開業した後も名古屋中心部に向かうのに最低でも2回乗り換える必要があった。そのため、住民は金山・名古屋駅へ乗り換えなしでいくことができるJR中央線春日井駅まで会員制バスを開設するなど対策を行ったためさらに乗客が減ってしまった。反省点は計画を甘くしすぎていたことに尽きる。「沿線住民が名古屋方面への移動に用いる公共交通機関は桃花台線のみ」という前提に基づいたものだったという。なお、現在も高速道路の上部など以外はいまだに廃線跡が残っていて鉄道が走っていた跡を窺い知ることができる。

↑桃花台東駅 ↓廃線跡(写真提供:コアラ)

③名古屋鉄道美濃町線 新関~関(0.3㎞) 平成11年4月1日開業 平成17年4月1日廃止
こちらもくりはら田園鉄道と同じく非常に短い路線。なんと営業していたのは6年だけ。それには訳があり、かつて美濃町線は新関駅から先6㎞ほど美濃市まで伸びていて、終点の美濃駅で長良川鉄道美濃市駅と接続していた。しかし、末端の閑散区間のため1999年に廃止。長良川鉄道と接続する新しい手段として300m延伸して長良川鉄道関駅の中に乗り入れていた。しかしその後も乗客減少に歯止めはかからず2005年に全線が廃止となってしまった。 写真:Wikipedia

令和の時代は廃止となる公共交通機関が少なくなることを切に願っている。

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