海、と聞くと、多くの人は真っ先に頭の中に塩辛い水で地球上の多くを覆うアレを思い浮かべるだろう。
しかし、必ずしもそうとは限らない。というのも、ある一定の条件によっては塩辛くなくても「海」となる場合があるからだ。
例えば、長野県には「小海線」という路線があり、大糸線には「海ノ口駅」という駅がある。当然、長野県に海はない。
この場合、「海」とは、「みず『うみ』」を指す場合もある。先述の「海ノ口」は、まさにその典型で、目の前には「木崎湖」と呼ばれる、湖が存在している。
ただし、必ずしもそれが当たるというわけではない。これも先述の「小海線」に依るが、ここにもまた、「佐久海ノ口」という駅がある。しかし、この駅には(またその周辺には)湖を含めて、水の溜まるような場所はないのである。ましてや、この駅は、野辺山や清里と言った駅が開業するまでは、国内の鉄道における最高地点を記録しており、東京湾の水面を0Mとする現在では、全く水と縁のない地形という印象さえ受ける。
ここで、さらに考えられるのは「海に対する憧れ」である。知っての通り、長野県には、海がない。つまり、かつての地元民たちは海を見たことがほとんどなかったのである。
そう言った中で、一種の、ある意味で憧れというものがあり、地名を付けたのかもしれない。
かつて、目に見えるものが全てではないと言った故人がいた。化学的な視点で見ると非常に胡散臭い台詞ではあるが、ふと、日常を振り返ってみるとそれもまた1つ正しいのかもしれない。
皆さんも、たまには想いを馳せてみてはいかがだろうか。
コメント